「なし崩し」には不同意
寒い時期を過ぎ、日の光も暖かくなる春。新しい命の息吹が感じられる季節です。同時に、非常に気の重い季節でもあります。子どもたちの学校での卒業式や入学式で、君が代斉唱時に起立・歌唱が強要されるからです。
限られた紙面ですが、「北茨城民報」に次のような手記を書きました。
小学校の入学式に、例年どおり市会議員として招待をいただいた。ところが今年は、君が代斉唱のときに起立することを強く求められた。自分なりの判断として、やむをえず私は列席を辞退した。
学生時代に教育学を専攻した。教育基本法の条文を初めてちゃんと読んだとき、こんなにも素晴らしい法律があるのかと感激した。これがもっと現場に反映されていたらと歯がみした。学校の主人公は子どもたちであり、その声に教員たちが真摯に耳を傾ける、そんな教育の場が保障されていたら、人は、もっと自由に、命と心を伸ばすことができるはずだという思いがふくらんだ。
いっぽう、戦争体験を聞いたり、戦争と平和の問題を考える機会もあった。そのなかで日の丸や君が代の歴史も学んだ。
日本の近代において、特に日本が起こした先の大戦でのその決定的な役割。そういう過去を引きずっている旗、天皇を神格化している歌に、私はどうしても共感・同意することはできない。
うちの長女が小学校に入学するころ、従軍慰安婦の問題がクローズアップされた。あまりに残酷な話に、戦争の無惨さがいっそう胸に刻みこまれ、以来、市議の議席を得てからも、君が代斉唱のときに着席を通してきた。
次は、ある歌の一節である。
「日の丸を見るたび震えがくる。君が代を聞くたび震えがくる」
これは、朝鮮から連れてこられて従軍慰安婦にされ、自殺をはかったけれども死にきれず、戦後も故国に帰れずに孤島に暮らしている方を歌ったものだ。同じ女性として私も震える思いで聴く。
また、次は沖縄の集団自決体験者の話である。
「手榴弾で自決を図るも死ねず、校長先生は自らカミソリをもち愛する妻の首に何度もあてた…」
悲惨な事実に胸をえぐられる。そこに至らせた教育の力、その大きな責任を問いたい。
ひとりの人間として母親として、人が傷つけられ殺されることは許せない。人は誰もが命を輝かせるために生まれてくる。いま生きている世界が、お互いがお互いを慈しみあい、大事にされる社会であってほしいと願わずにいられない。
その対極にあるのが戦争だ。国家の名において人殺しを強要する戦争への道に恐れを感じる。だからこそ、そこにつながる既成事実の積み上げや「なし崩し」の動きにも敏感でありたいと思っている。
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